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第18話「事上磨錬」
朱子学と陽明学
今から2,500年前に、孔子(紀元前551-479)は「修己治人」、つまり己を修め、人を治める儒教の大切さを説いた。その言行録は弟子たちの手で『論語』としてまとめられた。当時は春秋戦国の時代(紀元前770-221)、戦乱に明け暮れ、天下は麻のごとく乱れていた。それだけに儒教の教えは深く、広く人の心をとらえた。
しかし、その後、変質していく。前漢(紀元前202-8)の時代に国教化され、訓詁学の奴隷になってしまった。枝葉末節にこだわり、全体像が見えなくなっていく。
朱子学はこうした状況を打開するため宋(960-1279)の時代に起こった。開祖は朱熹(1130-1200)。しかし、明(1368-1644)の時代になると、国家公認の学問となり、再び硬直化していく。儒教は儒者による解釈が唯一、正しいとされるようになる。
これに疑問を持ったのが王陽明(1472-1528)である。儒教の基本経典である『大学』の内容が朱熹の手で書き変えられていることを指摘した。本来の姿に戻した『古本大学』を1518年に出版、朱子学と袂を分かつ。
その主張は「権威にやみくもに従うのではなく、自ら責任を持って行動する心の自由」にあった。
「学問とは自分の心を正しく捉えることを学ぶもので、心を捉えることができない学問は間違い」とした。
そして次の5点の大切さを強調した。「心即理」「致良知」「知行合一(ちこうごういつ)」「万物一体の仁と良知の結合」「事上磨錬(じじょうまれん)」。
二見直養
陽明学研究家、林田明大さんは、朱子学が一般に政治家や官僚を目指す、いわゆる知的エリートたちに受け入れられた「統治の学問」だったのに対し、陽明学は富裕商人を中心に、一般庶民の間にも浸透していった「実践の学問」だったと指摘している。
元はといえば、朱子学も陽明学も、今から2,500年前、孔子が『論語』などを通じて説いた儒教をより具体化するためのものだった。
しかし、商人から見れば、お上のいうことに縛られるより、自分たちで人間を磨き、仕事や時代を切り拓いていく実践の学問に心惹かれるのは当然だったろう。
その好例が岡山の高弟、二見直養(ふたみ・なおのぶ、1657-1733)という。実家は伊勢山田の出身で、代々、下宮の神官を務めていた。
事上磨錬
直養の父親、常辰は、山田外宮の権禰宜だった19歳のとき、江戸に出て繰綿の商売を始めた。商売は順調に進み、北は東北から西は長崎まで全国に販路を広げた。しかし、明暦の大火(1657)で全財産を失う。
直養が生まれたのは、この年。一家は離散し、常辰は直養が10歳のとき亡くなった。このため直養は、いったん学問のため伊勢の祠官となった後、家業を受け継いだ。支えになったのは奉公人だった松本市兵衛という。
家業は隆盛を極めた。その傍ら、直養は藤樹学の奥義を極め、江戸の藤樹学派のリーダーとして全国にその名を広めたという。1,700年代前半と推定される。ビジネスの成功と自己修育の工夫と努力を両立させたことになる。
陽明学は「知行合一(ちこうごういつ)」を重視する。知識と行動が一体化したもので、日常生活や雑事を大事にする「事上磨錬」があって、その境地に達するとする。日常生活の中のさまざまな所作には無駄なものは一切ない、むしろ日常生活の中で培ってきた能力こそが、さらに仕事の中に生きていく、と考える。
直養が事上磨錬を実践した典型とされるゆえんだ。
(誕生と系譜 第18話了、桐山)
- 第12話「年利18%の高利貸し」
- 第13話「寛政の改革」
- 第14話「石門心学」
- 第15話「三方よしの原点」
- 第16話「近江聖人」
- 第17話「視聴言動思を正す」
- 第18話「事上磨錬」
- 第19話「懐徳堂と逸材たち」
- 第20話「商人八訓」
- 第21話「理想の商人像」
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