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第15話「三方よしの原点」
三方よし
近年、CSR(企業の社会的貢献)の原点として注目されている言葉がある。近江商人たちの基本的な考え方とされる「三方よし」である。
元滋賀大学教授で近江商人研究家、小倉栄一郎さんの造語である。この考え方も石門心学とあい通じるものがある。簡単に触れておきたい。
三方よしは近江商人で、麻布商の中村治兵衛が70歳になった1754年、15歳の養嗣子に当てた書置きの中の一節が原典になっている。
「たとへ他国へ商内(あきない)に参り候ても、この商内物(あきないもの)、この国の人一切の人々、心よく着申され候ようにと、自分の事に思わず、皆人よき様にと思い、高利望み申さずとかく天道のめぐみ次第と、ただその行く先の人を大切におもふべく候、それにては心安堵にて、身も息災、仏神の事、常々信心に致され候て、その国々へ入る時に、右の通りに心ざしをおこし申さるべく候事、第一に候」
近江商人
要約すれば――他国へ行商するにあたっては自分の事ばかり考えず、その国の人々のことを大切にせよ。私利をむさぼってはいけない。神仏のことは常に忘れないようにせよ、ということになろう。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」
三方よしとはまさに、言いえて妙である。
近江商人は早くから行商で全国各地に販路を広げてきたことで知られる。特に関ヶ原の合戦では、足で集めた豊富な情報を分析、徳川方に加担、家康の信頼を得た。その結果、全国各地の自由な往来を保証する手形をもらい、従来以上に商売を拡大していった。
中村治兵衛はまさに、そうした近江商人の典型だった。しかし、なぜ、三方よしの経営哲学に行き着いたのだろうか。
『村市文書』
近江大溝(現在の高島町)といえば、百貨店の高島屋の創業者、飯田新七(1803-1874)の出身地。1600年代、ここから盛岡に、後に盛岡・近江商人三始祖と呼ばれる人たちが進出している。
そのひとつ、小野家の初代、小野善助が1737年に書いた遺言状を見ると、強い信仰心に裏打ちされた「勤勉」、「始末」に加え、「世間への奉仕の精神」が強調されている。この末裔が、後に、幕末から明治期に小野組として活躍している。むべなるかな、である。
同様に、この小野組の親戚筋にあたる村井市左衛門家の『村市文書』を見たい。初代の遺言を守り、公表を避けてきたが、13代当主、村井宏、久子夫妻の決断で、10年余りをかけて2004年に読み下し本を刊行した。
初代は1633年生まれで、幼名を市助、長じて孝寛(浄甫)。大溝で義姉に養育され、成長してから兄の村井源太郎が住む盛岡に移った。1648-1652年ごろという。
後、源太郎から店を譲り受け、質屋を営みながら事業を拡大、藩政にも代々深くかかわった。主なものとしては尾去沢銅山の経営、北上川の舟運、大井川の土木工事や天明の大飢饉における御用金献上、藩札の発行などがある。
『論語』の影響受けた初代
その初代が遺言状をしたためたのは1673(延宝元)年7月。三井高利が伊勢松坂から江戸に進出、日本橋本町一丁目に、呉服店、越後屋を開店する1ヵ月前だ。
遺言状は全部で15ヵ条からなっている。その第1条は「仏教に信心を致し、天道に止まらず、神をおろそかにせず、五常を専らたしなみ、主人、父母に忠孝を尽くすべき事」、また第14条には「子孫にはまず浮世五常をゆずるべし、財宝はともかくの事」とある。
この村市文書の中に、きわめて重要な文言が含まれている。「五常を云々」という表現である。五常とは『論語』に言う仁、義、禮、智、信である。
この五常は天明の大飢饉で財政難に陥った藩を救うため推定2,000両を用立て、士分に取り立てられた四代目村井市左衛門直種(浄閑)の遺言状にもあらわれている。わざわざ初代に言及、第14条をそのまま引用、「子孫には浮世五常をゆずれ、財宝は二の次」と強調している。お金にこだわるより、仁義禮智信、つまり心を大切にする子孫を残せというのである。
当時の豪商たちがいかに『論語』の教えを重視していたかわかる。ここにも中江藤樹の影響がうかがえる。
(誕生と系譜 第15話了、桐山)
- 第12話「年利18%の高利貸し」
- 第13話「寛政の改革」
- 第14話「石門心学」
- 第15話「三方よしの原点」
- 第16話「近江聖人」
- 第17話「視聴言動思を正す」
- 第18話「事上磨錬」
- 第19話「懐徳堂と逸材たち」
- 第20話「商人八訓」
- 第21話「理想の商人像」
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