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第8話「公共事業景気」
江戸開府前後
江戸の街の成り立ちをおさらいしておきたい。徳川家康が秀吉の命で江戸に入ったのは1590年8月1日。後に、この日を記念、「八朔の祝い」として庶民たちが小豆(あずき)の炊き込みごはんを炊いた。1703(元禄13)年からは吉原の遊女たちが白無垢を着るようになった。
入府当時、一帯は芦が茂る湿地帯だったとされる。しかし、大田同感が江戸城を築いた1457(長禄元)年ころから平河口という物流の拠点を持つ、水陸交通の幼少だったという。
府内は意識的に埋め立て工事が行われ、街づくりが進んだ。すでに家康入城に先立って、7月には井の頭から江戸城へ水を引く神田上水ができている。
この年、9月1日、日本橋本町の町割りに着手、26日に、一応完成を見たと記録にある。また、同じころ、行徳から江戸に塩を運ぶため小名木川の開削が行われている。
前後して毎日の魚介類を確保するために、最先端の技術を持っていた大阪・佃島の漁師が呼ばれ、魚河岸の中核を形成した。佃島の人たちは、それ以来の慣習で、いまだに、新年早々獲れた魚を真っ先に徳川宗家に献上しているという。
都市建設に必要な木材を確保するために駿河、遠江、三河、近江、伊勢などからも商人を呼び寄せた。こうして商業機能が次第に整っていく。
徳川家御用の職人の中には江戸城建設で活躍した京都御大工・中井大和守、桶大工頭・野々山弥兵衛、鉄砲師の胝(あかがり)惣八郎などがいる。土地を拝領、将軍にお目見えが許される、身分的には旗本扱いだった。
ついでだが、職人たちには各業種の国役請負人の下で年間数日間の無償労働が義務付けられていた。この結果、神田、日本橋、京橋周辺には多くの職人町ができた。紺屋町、大工町、鍛冶町、木挽町、大鋸町、塗師町など。大伝馬町は道中伝馬役の名主、小伝馬町は江戸府内の小伝馬役が住んだところから名前がついた。
1600年、関ヶ原の合戦で天下を握った家康は、1603年に幕府を開く。江戸時代の開幕で興味深いのは近江商人の扱いである。豊臣との天下分け目の戦に臨んだ家康を近江商人はいち早く支援、全国の情報を伝えた。家康はその労を多とし、全国を自由に往来できる手形を与えた。
「江戸しぐさ」の基盤をなす、中江藤樹の教えが全国に広がった要因のひとつだ。
人口密集地帯だからルールが生まれた
一方、街づくりが急ピッチで進むようになる。いわば住宅・建設需要が好景気のエンジン役を果たした。近隣から、江戸に「一旗上げよう組」がどんどん集まってきた。いきおい江戸の町は男性の数が圧倒的に多くなった。
ちなみに、幕府を開いて約50年後の明暦年間(1655-58)で江戸の人口は50~60万人、男30万余、女21万5千余。男2.4人に対し、女1人の割合だった。吉原ができたゆえんだ。
江戸の人口統計は必ずしも正確なものではないが、参考までに見ておこう。1721(享保6)年の時点で見ると、町人だけで約50万人、武士についても約50万人と推定されている。他に僧侶と神官が約2万6,000人。合計すると100万~130万人だったことになる。
ちなみに、1869(明治2)年に行われた土地調査がある。武家地が69%、寺社地が15%、町地が16%。50万人が江戸全体の6分の1の面積に住んでいた。実際にはこのほかに農地があったという指摘もあるが、人口密集地帯であったことは間違いない。
長屋の暮らしも、表通りの道歩きでも、それなりの暮らしのルールがなければ、トラブルが頻発して仕方なかった。「義理人情」も「お互い様」も「譲り合い」も「思いやり」と軌をひとつにしたものだった。「ありがとう」も自然に出たろう。
商いは才覚
日本橋ができたのは1603年、幕府開府の年である。翌年、日本橋は東海道など5街道の基点となり、街道には1里ごとに一里塚が創られ、両側に松が植えられた。
江戸の街づくりに関しては、この建設工事で、一気に商売の規模を広げた商人がたくさん出た。たとえば、工事で大小さまざまな木片が出る。これをかき集め、薪として売った。
すべては才覚次第である。
話は前後するが家康入府の翌年、1591年には伊勢与一という人物が銭亀橋で永楽銭一文の入湯料をとって銭湯を始めている。銭湯の名前はこの永楽銭からきたものらしい。
1596年、ひな祭りに合わせて白酒を売り出し、評判を呼んだ地元豊島屋の話がある。
初めは魚河岸や鎌倉河岸に集まる人たちを相手の一杯飲み屋。酒を仕入れ値で売り、つまみは相場どおりとし、「安い」と評判をとった。酒樽の売却益で十分元が取れたのだ。酒樽は防水桶などとして需要があった。
その場所は日本橋の魚河岸に程近い神田・鎌倉河岸。鎌倉から築城に必要な石を運び、ここから陸揚げしたことからこの名がついた。
余談になるが、日本経済新聞社と日経CNBCのオフィスを結ぶ鎌倉橋のすぐ近くである。
橋の北詰には由来を示す、小さな碑が立っている。豊島屋は今も健在で酒造業、食品問屋、不動産業などを営んでいる。
流通業の台頭
ところで、いま業界再編で話題になっている百貨店業界の前身、呉服商の展開を見ておこう。
江戸へは1662年に、近江長浜の出身で京都在住の材木商、大村彦太郎可全が白木屋を出店した。この屋号は独立する際、叔父から譲り受けた白木の木曽檜にちなんでいる。
いずれ、このシリーズの中で、当時の模様を詳細に記録した古文書を参考にその歩みを紹介したい。
1673年には伊勢松坂の三井高利が越後屋(三越)を出店している。
白木屋も越後屋も店員は男ばかりだった。
松坂屋は1611年、名古屋で創業し、江戸には1768年に出た。
大丸は1717年、京都で創業、江戸への出店は1743年。
ついでに言えば、高島屋は1831年の創業で、江戸(東京)に出るのは1900年のことだった。屋号は出身地である近江高島にちなんでいる。
時の政権と組んで貿易や土木・建設事業などを進めた「政商の時代」から、暮らしを念頭に大消費地をにらんだ小売業、問屋など「流通業の時代」へと、流れは変わりつつあった。
(誕生と系譜 第8話了、桐山)
- 第1話「最後の江戸講元」
- 第2話「祖父は江戸講の講元」
- 第3話「江戸しぐさへの旅」
- 第4話「関心寄せた文化人」
- 第5話「商人の才覚を活用」
- 第6話「豪商たちの足跡」
- 第7話「『町人考見録』の戒め」
- 第8話「公共事業景気」
- 第9話「1750年前後」
- 第10話「江戸っ子第一世代」
- 第11話「助六芝居ヒットの理由」
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