- 現在表示位置
-
- ホーム>
- 「江戸しぐさ」とは?>
- シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】>
- 第2話「祖父は江戸講の講元」
第2話「祖父は江戸講の講元」
祖父は江戸講の講元
芝さんは1922年、東京・芝に生まれた。芝といえば、神明境内で力士と町火消しの意地の張り合いになった「め組のケンカ」の舞台だ。
故あって生まれ、母方の、つまり祖父の家に引き取られて育った。祖父はかろうじて維新後も残った数少ない江戸講の講元で、いつも胡坐(あぐら)の上に座り、江戸の話を聞いていた。曽祖父は寺子屋の師匠だったという。
江戸講には赤ん坊のころから姥代わりの抱き婆に抱かれて出入りした。物心つくころは大人たちの間で静かに我慢することを覚えた。6,7歳になると、講師の目を見つめて話を聞くことを躾られた。8,9歳になると講師の口真似をし、10歳ごろにはお説教の内容が少しわかるようになったという。
大人に混じって子供を教育する江戸式の保育で、どんな人の話もすんなり受容できる「くせ」をつけられた。
白い下着に墨で署名
本名は小林和男。江戸の人たちが武士や町人の身分の違いを捨てて「連」や「講」を組み、一種のペンネームを使って、狂歌や川柳を詠んでいたことに倣(なら)って、生まれた地名を取り、芝三光とした。
うらしまたろうという別名もあった。江戸講の流れを汲む1946年発足の「東都茶人会」、65年設立の「江戸を見直すミーティング」、74年につくった「江戸のよさを見なおす会」で使った。
会での講義、あるいは出前講をするときは必ず冷水で身を清め、真っ白いおろしたての下着に墨で姓名を記し、気を引き締めた。
この身を清め、白い下着をつける所作は、これぞというとき、必ず江戸の大商人たちがするものだったという。武家社会から町人社会にも伝わった伝統で、精進潔斎だ。
GHQに勤務
戦後は、英文タイピストだった母親の知人、日系二世の情報将校のコネで、GHQ(連合国軍総司令部)に、しばらく勤務、情報関係のスタッフとして働いた。
その後、科学雑誌の編集長を務め、テレビの組み立て技術を図面入りで紹介するといった器用さもあった。マーケティングについても詳しかった。
マーケティングと言う言葉は戦後の輸入品だが、実は江戸では、すべて、その先を行っていた。浮世絵にはご当地の有名な旅籠や呉服屋、化粧品の名前が刷り込んである、といった話をよく伺った。
情報の専門家を育てた陸軍中野学校に関しても、微に入り、細にわたり知識が豊富で、情報収集のノウハウは尋常ではなかった。
たとえば階段の手すり。素材が真鍮だとしたら口径を指でさりげなく測り、はじいた音で厚さを観るなどはお手の物。その企業なり、国の経済力が推定できると言い切っていた。
江戸時代には地震の到来を言い当てるほど、感性の鋭い人物がいたという話も聞いた。
情報機関の光と影
余談だが、当時、GHQ の情報機関の主な仕事は検閲だった。日本語の分かる日系二世のトップの下に、日本人スタッフがついた。その数、6,168人(1947年3月、うち日本人は5,076人)。報酬は皮肉なことに日本の国家予算から支払われた。
言論の自由とは名ばかり。占領政策に対する批判をチェックするもので、マッカーサーGHQ最高司令官の占領政策を影で支えた。個人の手紙はむろん、新聞、雑誌、ラジオなどのマスコミもすべて検閲を受け、統制された。
したがって、この部署で働いた人々は世間をはばかって、自分が働いていたことを隠している人が多い。
(誕生と系譜 第2話了、桐山)
- 第1話「最後の江戸講元」
- 第2話「祖父は江戸講の講元」
- 第3話「江戸しぐさへの旅」
- 第4話「関心寄せた文化人」
- 第5話「商人の才覚を活用」
- 第6話「豪商たちの足跡」
- 第7話「『町人考見録』の戒め」
- 第8話「公共事業景気」
- 第9話「1750年前後」
- 第10話「江戸っ子第一世代」
- 第11話「助六芝居ヒットの理由」
他の巻についてはこちらから

