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第1話「最後の江戸講元」
江戸しぐさを伝えた芝三光
江戸ゆかりの家に生まれ、江戸しぐさの普及に力を入れていた芝三光さんには、生前、何回か、お目にかかった。ご縁に恵まれ、『江戸の繁盛しぐさ』(越川禮子著、日本経済新聞社、1992年12月発行)をプロデユースした。著者の越川禮子さんに、資料を提供し、「利き書き」に応じた人物に会うことは、編集者にとって「イロハのイ」だった。外出するときは必ずベレー帽をかぶる「おしゃれ好き」。それでいて、「はにかみや」のところもあって、初対面の人には、あまり心を開かない一面を持っていた。
東京・渋谷にあるマンションを定刻の5分ほど前に訪ねると、姿が見えない。越川さんが迎えてくださった。いろいろ、やり取りの末、部屋に通していただいた。やがて、ご本人が登場した。ニコニコしている。後で分かったのだが、玄関脇の風呂場で聞き耳を立てていた。ちゃんと約束の時間より5分前に到着したか、挨拶がきちんとできたか、、、、いくつかチェックを受けていたらしい。
考えてみると、一緒に仕事をする相手としてふさわしいかどうか、吟味するのは江戸しぐさの第一歩だった。
藤山一郎とのエピソード
「江戸しぐさ語り部の会」のメンバーで、越川さんの右腕、辻川牧子さんには次のような体験がある。越川さんの紹介で初めてお目にかかった時、歌手の藤山一郎の話をした。
すると、「いつぞや、目黒の会合で江戸ゆかりの者としてご紹介いただくと、参加していらした藤山さんがすーっと私のところにいらっしゃいました。そして静かに礼をされ『かねてより、江戸講の流れをお継ぎくださっておられる方がいらっしゃるとは伺っておりましたが、こんなにお近くにいらっしゃいましたとは、、、』と喜んでくださり、『ご挨拶が遅くなりました』と改めて丁寧なご挨拶をしてくださいました」次に会ったときには、そのときのアルバムも見せてもらったという。
藤山一郎は大商人の家に生まれたが没落、莫大な借金を返すために流行歌手になった。
流行歌手は当時、まだ、卑しい職業とされていた。しかし、お金を稼ぐには手っ取り速いと、歌手の道を選び、大スターになっていた。
辻川さんが言う。
「先生にとっては藤山さんが大歌手だったからというよりは、江戸講の講元として敬意をこめて遇され、礼を尽くされたことに対する喜びが一番大きかったようです」江戸しぐさを口伝の形で継承してきた者同士ならではの心の通いあいがあったようだ。
口伝を継承した者同士
実は、似たような体験を芝三光さんはしている。
『赤城の子守唄』などのヒット曲を持ち、直立不動で歌うことで知られていた東海林太郎との思い出だ。あるとき、何の会合だったか、東海林太郎が芝三光さんに近づいてきて、こういったそうだ。
「下品(げぼん)なものでして、、、」
ああ、この方は江戸しぐさをご存知だ、と芝さんは瞬間的に思ったという。
上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)。人間のたしなみの位に応じてこんな表現を江戸ではした。自ら下品というのはへりくだっての表現で、生半可の人では知らなかったし、つかえなかった。
戦前、国家総動員法で集会を禁じられる前の江戸講には、コメディアンの草分け、古川ロッパも顔を見せていたそうだ。
(誕生と系譜 第1話了、桐山)
- 第1話「最後の江戸講元」
- 第2話「祖父は江戸講の講元」
- 第3話「江戸しぐさへの旅」
- 第4話「関心寄せた文化人」
- 第5話「商人の才覚を活用」
- 第6話「豪商たちの足跡」
- 第7話「『町人考見録』の戒め」
- 第8話「公共事業景気」
- 第9話「1750年前後」
- 第10話「江戸っ子第一世代」
- 第11話「助六芝居ヒットの理由」
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